<地元コラム>横浜市少年洋上セミナーのその後nipponn06

ふと気になった。

「洋上セミナーって、どうなった?」

正式名称は、横浜市少年洋上セミナー

1982年、当時横浜市長だった細郷道一氏が発足した、毎年夏に開催されていた横浜市の恒例イベントだ。

応募と抽選で選ばれた横浜市内の中学1年生550人程が、にっぽん丸や、ふじ丸といった巨大船で北海道へ向かう研修クルージングトレーニング。

親元を離れての7日間、横浜大桟橋から北海道までの航海で、規則正しい集団生活から、レク、ロープワーク、天体観測、海洋実習など行う。
目的地の北海道では、到着地の中学1年生との交流をする。

当時の細郷市長は、横浜の未来を担う青少年活動にとても力を入れていた。
私も中学校に貼ってあったポスターを見て応募し、参加した。

中学1年生という思春期で多感な時期に、他の中学校の仲間と大海原の船上で過ごした日々は、とてつもなく強烈な想い出となった。

巨大船に乗ること、長い間家族を離れて旅すること、水平線に囲まれること、大海原の中で船のライトを全部消し、信じらない程きれいな星空を観ることも。

人と大自然とのふれあい、底抜けに楽しそうなリーダー達への憧れ。
大人って楽しいんだなって思った。

それはあまりにも濃く、楽しく、充実した体験の連続であり、横浜に戻って下船の解散時には、別れを惜しんでメンバー全員が大泣きした。

今迄の人生を振り返っても、あれ以上に濃くて、人生に影響した7日間は無い。


それからは横浜に住んでいることが誇りとなった。
横浜が心から好きになった。
今振り返ると、人生の大切な選択や岐路で、この洋上セミナーの経験が関わっている。

洋上セミナー後は、横浜のボランティア団体に入り、横浜で開催される数々のイベントに積極的に参加し、その繋がりで大勢の人達と出会った。

外に向かって積極的に楽しみを求めていくようになった。
自然、特に海が好きになった。

洋上セミナーはその後の人生にも多大なる影響を与えてくれた、感謝してもしきれないイベントであった。

いつか自分に子供ができたら絶対に参加させたいと思っていた。

今の思春期の子供たちにとって、机上であれこれ学ぶよりも、本当に必要なのは、仲間と共有する感動や、地球の美しさに接するリアルな実体験なんだと強く思う。
 
でも、ネットで洋上セミナーを調べても、何も情報がない。

「横浜市少年洋上セミナー」で検索しても1件もでてこない、なんで?

あれ程の大イベントの情報が、なぜ存在しない?

気になったので、横浜市議会の議事録を紐解いてみた。

議事録には、第22回目(2001年開催)までは実施活動の記載がある。
しかしその後、2002年以降洋上セミナーに関する情報が一切ない。

どうやら2002年に洋上セミナーが廃止されたようだ。

好評だった横浜恒例夏のイベントがなぜ廃止になったのか?
理由を調べてみたが、議事録には記載がない。

でも、納得ができる要因があった。

この2002年、横浜市にとって歴史的な出来事があった。

細郷道一市長の意志を継ぎ、12年市長を務めた高秀秀信さんが市長選に破れた年だ。
そして新市長中田宏さんが就任した年だ。

この市長選はドラマティックだった。

表向きは「現職の高秀 vs 新人の中田 」という対決だったが、中田氏にとって高秀氏は恩師。

高秀氏は中田氏を家族同様にかわいがり、政界を目指す彼を全面的にバックアップしていた。
当時お金がなかった中田氏は、高秀家でご飯やお風呂までいただき、娘さんとお付き合いもしていたという。

その恩師を人格批判し、仇で返す反逆の市長選となった。
横浜市民は若くて勢いのあった中田氏に投票。
中田宏新市長が誕生すると、そのわずか5か月後に高秀氏は病にて他界してしまう。

その後の高秀夫人による「夫は中田市長に殺された」という記事が週刊現代に掲載されたが、この内容から高秀氏の無念さが伺い知れる。

「主人は選挙後、俺が至らなかったと淡々としていましたが、無念だったと思います。選挙委から五ヶ月後、主人は突然倒れました。憤死、そうかもしれません。中田さんのような人と付き合ったがために、主人の死期は早まりました。  葬儀に中田さんが来ましたが”葬儀場に入らないでほしい。来ても座席に座らないでほしい”と頼みました。」

横浜市長となった中田氏は、就任直後から徹底的な削減政策を実施。

ああ、これで洋上セミナーが廃止されたんだ。

中田宏新市長が掲げていた無駄な公共事業の1つとなったのだろう。

残念過ぎる廃止だが、これは市の財政状況を考えてのやむなき判断だったのかもしれない。

もう1つの横浜名物もなくなった。

当時市内のあちこちにあった直送封書「市長への手紙」だ。
横浜の各区役所に置かれていた、送料無料の便箋だ。
市民の手紙が直接市長に届くというもので、これも一つの横浜名物だった。
大した経費はかからないと思うが、これも無駄の削減か?

ハマっ子の未来への投資、洋上セミナーまで廃止したのに。
最終的に中田宏市長はY150(横浜開港記念博)の大失敗で28億という莫大な赤字を作った直後、総責任者という立場ながら、説明責任を回避してトンズラ辞任をしてしまった。
横浜が全国の笑いものになったY150の惨状はネットに上がってるとおり。
この莫大な赤字は、横浜市民税で補てんされた。

これで洋上セミナーが何百年開催できたよ!?

そんなこと考えると本当に悲しい。

かつての細郷市長と高秀市長、ふたりのおじいちゃん市長は、横浜の未来を担う青少年の活動支援にとても力をいれていた。

団結式の朝、細郷市長がにこにこしながら僕らを見送ってくれた。
横浜に住んでいて良かった、横浜が好きだと心底思った。

当時よく使われていた横浜の地元愛あふれる「ハマっ子」なんて言葉も、もはや死語になった気さえする。

横浜市少年洋上セミナーは、今はネット上にも殆ど情報がない。

あの、キラッキラに輝いていた横浜の大イベントが、まるで”幻”だったかのように、跡形もなく無くなってしまった。

あの巨大船からの光景、感情、仲間たち。

大人になってしまった我々各団員の、心の中にだけ強烈に残っている。

天国の細郷さん、高秀さん、素晴らしい贈り物をありがとう。
今もずっと感謝しています。

<KAMEさんの投稿>


豆知識


横浜開港150周年を記念して2009年に「Y150」横浜開国博が開催された。

横浜の威信をかけたこの一大イベントは中田宏「肝煎り」で情実任用された野田由美子(副市長)らによって推進され、有料入場者数500万人と計画された。しかし杜撰な計画が当初から指摘されており開幕早々不振となる。もはや失敗が明白な情勢となると中田宏は責任追及を恐れて任期半ばに市長職を辞職。そのまま不振が続き、結果として有料入場者は計画の25%にも満たない悲惨な有様となってしまった。この失態と巨額赤字をかかえたまま次々に外郭団体の横浜開港150周年協会の杜撰な仕事が明るみになった。旅行代理店各社らは「イベント内容は当初計画案とかけ離れており、横浜開港150周年協会は契約義務を果たしていない」として提訴。また横浜開港150周年協会は運営を委託した博報堂JVに対して、今更になって概算契約金の減額を求めて調停申し立てするなど、この問題は泥沼の訴訟を6つも抱える事態となった。この事態を収拾できないとみるや野田由美子も早々に辞職。横浜市議会・決算特別委員会は「担当者がいないのでは審査の障害になる」「責任を全うしなかった理由も分からない」として中田宏と野田由美子を参考人招致する事態となったが後の祭りである。このように横浜市は中田宏とその周辺人物の無知・無能・無責任のために多大な損失を被る事となった。


集客数では、同時期に開催されたお台場の実物大ガンダム一体に負けた。